グリーフケアについて

グリーフケアについて

グリーフ(grief)とは、深い悲しみを意味します。
インターネットで【グリーフケア】を調べると次のような説明を目にします。
【グリーフケア(grief care)とは、身近な人との死別を経験し、悲嘆に暮れる人を、悲しみから立ち直れるように支援することです。
遺族に寄り添う姿勢が大切であるとされ、 「グリーフ(悲嘆)のプロセス」という長期に渡って特別な精神の状態の変化を経て、大きな悲しみを乗り越えて行く過程を支援し、最終的には遺族が立ち直れるまで寄り添うことを目的としています。】

自宅で父の看取りをすることを決意した私と母は、父の最後の一息まで同伴することが出来ました。
癌、余命3ヶ月の告知、突然の別れを突き付けられた当初のショックは、私にも母にも大きなものでした。
母は妻としての悲しみや喪失感がかなりのものだったと思います。
母と悲しみを共有し、母に寄り添うことも、グリーフケア的なものだったと思います。

死別による喪失の悲しみは元より、様々な心の傷、痛みに寄り添うことが出来たらと願います。
私たち家族の体験が、少しでもお役に立てるなら、こんなに幸いなことはありません。

グリーフケア

私は末期ガンの宣告を受けた父を自宅でみとりました。
年齢が85歳と高齢であったこと。告げられた余命が3 カ月であったこと。
積極的治療を施した場合でも延命期間が1 年ほどだったこと。
そして何より、父自身が延命治療はせず、家族と共に最期を迎えたいと望んだため自宅での療養を決意しました。
「自宅で」と決意したものの、何をどうすればいいのか戸惑いもありましたが、訪問診療を行っている地域の医師や看護師を紹介してもらい、不安は無くなりました。身体的な不自由は無かったので、特別なベッドや車いすなどを用意する必要もなく「日常のまま」の自宅療養となりました。

父が自転車に乗って母の好物のスイカを買ってきたり、母と散歩に出掛ける日もありました。当時東京で暮らしていた息子が何度も帰省し、父をドライブに連れて行ってくれたこともあります。入院していたら叶わなかったであろう、それまでと変わらぬ日々が過ごせてとても良かったです。ただ、徐々に食欲が落ち、大好物でさえ受け付けなくなり痩せていく父の姿を間近で見続けることは想像以上につらいことでした。

ですが、我が身より家族を気遣う優しい父に、感謝の気持ちや尊敬の念を伝える時間が持てたことが本当に幸せでした。その実現をよりスムーズにしたのは、娘に対する父の全面的な信頼、そして私や母が看取りに専念でるよう協力を惜しまず支えてくれた夫や娘の存在があったからだと思います。

グリーフケア
グリーフケア
グリーフケア

父の死後、引っ越した一軒家で一つ屋根の下、夫の両親、私の母、私たち夫婦と娘6人の同居生活がスタートしました。全盲の舅は引っ越してから脳梗塞や、胸部大動脈瘤で入退院を繰り返すことになり、目の見えない舅の生活は自宅でも病院でも大変でした。本人の忍耐にも家族の負荷にも先の見えない重さが日毎にのし掛かって来ました。入院先から施設への検討も勧められたのですが、最終的には舅の「家に帰りたい」という強い願いを受け止め、自宅での介護体制を整えました。
「誕生日は家で皆でお祝いしよう!」と退院の手続きを進め連れて帰りました。
舅は帰る準備をするとき本当に嬉しそうでした。
退院当日が舅の誕生日、その夜には願っていた通りに、皆でささやかなお祝いの時を過ごせたことは感謝でした。

そして帰宅後5日目、姑と夫婦水入らずを過ごしている部屋で、舅は電気がパッと消えるような大往生を遂げました。私の父の死後ちょうど一年あとのことです。

グリーフケア
おじいちゃんと孫
新田一家

2024年現在、満96歳の姑と満93歳の母はそれぞれの我慢とそれぞれの努力で「友達以上、兄弟未満」の関係を保って元気に暮らしています。二人の母の共通の思いは「寝たきりにならず家族に迷惑をかけずに死ねたらいいけど世話にならないわけにもいかない」ということのようです。
誤解を恐れずに言えば私自身も母たちの存在に感謝と重荷の両方を感じることがあります。だからこそ父や舅の時以上に、死ぬまでの時間を共にどう過ごしたいかを話し合えたらいいなと願い、会話を重ねてきました。母たちの意識の確かな間に率直に本心から話し合えていることは幸いです。
誰にとっても必要なものは安心できる居場所と大切にされている、愛されているという実感ではないでしょうか。二人の母がこれからもそう感じることができるように、私もこの日常を真摯に受け止め備えていきたいと思っています。
家族構成はいろいろだと思いますが、私の体験が少しでもお役に立てば幸いです。

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